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伊藤計劃さんの「ハーモニー」を読んだので感想書く

こんにちは。uたそです。

 

積読していた伊藤計劃さんの「ハーモニー」を正月の期間で読んだので感想を書いていきます。(ネタバレ注意)

 

ジャンルとしてはテクノユートピア(?)近未来SFです。

 

社会リソースとしての人間

高度に発展した医療福祉社会が実現された近未来、老い以外の病気は体内に埋め込んだシステムによって早期に発見・治療され、寿命や事故以外で命を落とすことは無くなった。

 

数十年前の大災禍による世界的混乱で人類は減少し、世界は一人一人の人間を貴重な社会的なリソースとして扱い始めた。それによって他人を思いやり、守ろうという"善意"に満ちた世界が構築された。

 

ユートピアととらえることもできるが、読みながら無菌室のような管理された社会像に若干の嫌悪感を抱いた。"善意"のもとに「わたし」は健康状態を常に監視され、プライベートが限りなく消失した社会。

 

現代社会を生きていれば、やけ酒したいときも過食にはしることもある。(あるよね?)

 

自傷行為は褒められる行為ではないし、煙草もお酒も議論をしたら摂取しない方が良いという結論に至るのは分かりきっている。でも我々は感情で生きているわけで、常に合理的な行動を取れるわけではない。

 

SNSで正論パンチを繰り広げる個人が増えた印象だが、潔癖であろうとする社会は息苦しいのかもしれない。大半の「わたし」は社会のために生きているわけではないのだ。

 

「わたし」は当然「わたし」のもので、社会のものではない。

周囲に迷惑をかけていない限りは、他人に干渉したくないと僕は思う。

 

完全な社会的存在

意識や感情(精神)は進化の過程で所有している方が生存確率が高かったから獲得した特性であり、人間や他の生物もその場その場で都合のよい特性を身につけた継ぎはぎでしかないという考え方はハッとした。

 

高度な文明社会において生存に精神は不要と考え、社会に最大限適合した存在になるために意識を消失させようとする試みは思考実験として面白い。

 

判断のいらない世界。社会を運営するために、決められた時間に決められた場所で最適な栄養を摂取し、最適な労働時間と最適な休養を取る。まるでロボットのように感じる。

 

意識を消失し、最大限社会に適合したとき、個人は存在しなくなり一つの社会だけが存在する。この最大限社会が調和した状態を「ハーモニー」と作中では呼んでいる。

 

当然、意識の消失は死と同義だとする意見もあるし、僕もそう思っている。それと同時に人間を遺伝子の乗り物だと捉えれば、紛争や自殺などの無い社会(ハーモニー)の方が都合がいいんじゃないかとも思ってしまう。

 

個人が生まれて社会を形成して、寿命を迎えて死んでいく。ごく自然なプロセスの中に「わたし」がいない。それだけ。

 

では、なぜこのハーモニーを僕たちは受け入れがたいと思っているのだろうか?

 

喜びや悲しみや怒りなどの感情を「わたし」が得たいという、感情そのものへの欲求があるのだろうか?

 

その「わたし」自身が消失すれば感情への欲求すら消えるが、肉体ではなく精神としての「わたし」自体に存在欲求があるのかもしれない。

 

1つの個人的な解として、精神は成長の機会を欲しているのではないかと思っている。精神の存在しない完全に調和した社会に、精神の成長はない。

 

社会に精神が存在している場合でも、苦痛も怒りも葛藤もない生活を素直にユートピアだと受けいれられない自分がいる。精神は受難の後に成長するはずで、それ自体への欲求があるように思えてしかたない。

 

まとめ

今回はあえて登場人物を感想に登場させなかった。登場人物の感情の動きなども小説を読む醍醐味ではあるのだが、この作品では社会の在り方と「個人」と「公共」という対比について語りたかったのだ。

 

SF作品の別の楽しみ方として、未来テクノロジーのアイデアを得られるという点も忘れてはならない。当然、この作中にも多くのテクノロジーが登場する。科学者やエンジニアは読んでいて楽しいだろうと思う。

 

最後まで読んでいただきありがとうございます。

未読の方はぜひ一度読んでみてください。定価700円前後でお買いもとめやすいです。

 

それでは!